小倉まちじゅうモール

あのころコラム ひとむかし あの頃を知っている小倉マスターに聞きました。

京町銀天街のひとむかし

長崎街道の起点として栄えてきた歴史を持ち
歓楽街と専門店がひしめき合った商店街

●お話を伺った人
渡邊洋史さん(昭和17年生まれ)/ソニア・クロネコ
岡本勝さん(昭和20年生まれ)/はきもの カクシン
小川由之さん(昭和26年生まれ)/オガワ時計店

線路の向こうは砂浜だった時代

長崎街道の始点である常盤橋に接する京町銀天街は、古くから商人の街として栄えていました。参勤交代の往還路であり、また、鎖国時代に唯一外国との貿易が許された長崎からの交易・献上品も、現在の京町銀天街を通って運ばれたといいます。

小倉駅が現在の場所に移転する昭和33年までは室町にあったため、京町は小倉の商店街の入り口でもありました。 子ども時代から京町で暮らす幼馴染であり、今なお商売を営む御三方にお集まりいただくと、自然と幼少時の思い出話に花が咲きます

▲昭和33年の京町界隈の地図
▲昭和33年の京町界隈の地図

「子どもの頃は店の前で相撲を取ったり、メンコをしたりしよったね。朝早く井筒屋から流れてくる音楽が聞こえたら、走って学校に行きよったもんね」(小川さん)

「9時、12時、3時、6時だったかな? お寺の鐘がわりだったね。私はお城のほうで野球をやったりしてた。あと、常盤橋のたもとに『髙宮』っていう小さい釣り道具屋があったんです。それがいまの『釣具のポイント』。昔は細い竹の竿でね。紫川でハゼが釣れよったね」(岡本さん)

「いまの小倉駅の北側には『豊楽園球場』っていうのもあったね」(渡邊さん) 「そうそう。球場がなくなった後には木下サーカスが来たね。それからずっと後にはゴルフの打ちっぱなしになって、その後ボーリング場になったね。いまの線路は高架になってるけど、昔は線路を越えたら砂浜だったもんね。」(小川さん)

“京町銀座”と呼ばれ、多様な店が集まり賑わっていた

戦後は小売商がひしめくように集まり、紫川〜ちゅうぎん通りまでは“京町銀座”と呼ばれていました。そのことからも、街の賑わいぶりが想像できます。

また、昭和25年、12月25日のクリスマスの夜に京町一帯は大火見舞われ、1丁目のほとんど焼けてしまうという出来事もあったそう。難を逃れたカクシンには、当時の写真が残っているといいます。

「うちは風向きのお陰で無事だったんよね。火事の翌年に撮った店の写真があるんだけど、うちの店の後ろの建物はみんななくなってしまっています。京町の入り口には靴磨きとか輪タク(自転車の後ろに客席をつけたタクシー)が写っていますよ。そんな時代でしたね」(岡本さん)

「輪タク、懐かしいね。小倉駅の前とか井筒屋の前にもいましたよね」(小川さん)

「昭和25年頃というとちょうど朝鮮戦争の頃でね。今の勝山公園にMP(ミリタリーポリス)があって、商店街にも米兵も多かった。外国人向けの商品を扱う店も多かったね。スーベニアって言ってね、お土産屋ね」(渡邊さん)

「昔は京町の線路側のエリアを船頭町と呼んでいたんだけど、小倉に歓楽街はそこしかなかったよね。船頭町には映画館もいっぱいあって、小説の『無法松の一生』にも出てくる『常盤座』(のちに小倉大映、小倉東宝劇場)、あとは『喜楽館』(のちの日活)とかのちにOS劇場(松竹)ね」(小川さん)

▲渡邊さんの店に残る、江戸時代の京町の地図。今よりも間口の広い店が連なっていた

盆暮れは深夜までお客が絶えなかった

当時はどの店も朝は8時か9時には開店し、夜9時ごろまで営業していたといいます。「昭和30〜40年代はそれが当然だったし、それだけ売れとったんよね」と岡本さんは振り返ります。

「昔は下駄が日常履きだったから、盆暮れはとにかく忙しかったね。大晦日なんて、うちと『ナガタ理容室』は深夜2時3時まで店を開けとったんやなかったかな」(岡本さん)

「紳士物はいちばん最後になってカッターシャツとかネクタイがよく売れるのよ。親父の手伝いを深夜0時くらいまでやってた記憶があります」(渡邊さん)

商店街とちゅうぎん通りが交わる交差点上には巨大な地球儀がありました。この街のシンボルであったこの地球儀が作られた詳しい経緯はわかっていませんが、当時を知る人の記憶には深く刻まれているのではないでしょうか。

3人にいまでも記憶に残っている商店街の風景について聞いてみました。

「釜うどんと焼き飯が有名な『若竹』の隣に『大阪屋』って肉屋があったんよ。地下に大きい冷蔵庫があって、牛が1頭ぶら下がっていたのを見に行きよったね」(岡本さん)

「『大阪屋』の隣は銀行でね。そのさらに隣に『マヤ』があって、洋装店と純喫茶をしよった。2階は釜飯屋さんね。その隣に『ロイ』っていう洋品店があったね」(小川さん) 「お汁粉とかぜんざいの『森下』もあったよな。その向かいは万年筆の『ヒゴヤ』で、店の奥では食堂もしよったね」(岡本さん)

残していきたい商店街のよさ

今では専門店が少なくなってきた京町銀天街ですが、かつての商店街はさまざまな専門店が並び、その目利きや技術を求めて人々が買い物に集まる場所でした。

婦人服の専門店である「ソニア・クロネコ」を営む渡邊さんは、当時のことをこう振り返ります。 「うちの店の創業は明治20年代。元々は雑貨屋で、うちの親父が途中から紳士物の洋品店をしていたんです。女性が働き出してからは婦人向けの店が増えて、うちは『クロネコ』というブランドものを売るようになりました。いわゆる日本のブランドの走りです。東映会館の『三愛』とかSABOビルなんかもできて、婦人物がよく売れるようになった。特にバブルの頃は、なんでこんなに売れるかってくらい売れましたよ」

▲繊細な時計修理はまさに職人技だ

時計やメガネを扱っている「オガワ時計店」の小川さんはこうも話します。

「昔はメガネのレンズを手で削っていたけど、昭和50年ごろからはコンピューターになりました。そういう職人さんがいまもう、ほとんどいないですね。我々の業界はね、皆さん2代目は時計の修理を覚えさせてもらえないんです。それより売った方が効率がいいから。でもやっぱり時計の構造を知らないまま売るのもどうかと考え直して、勉強して修理をし始めたんです。だからいまどきの店のほとんどは、針が取れたとか言われても直しきらない。だからうちの店は、最近は時計もメガネも修理の依頼が多いですね」

「下駄の専門店はいまじゃ日豊本線沿いは鹿児島までない」と話す「はきもの カクシン」の岡本さんの店も、いまは修理のお客が多いのだそう。

「私みたいに鼻緒をすげたりできるのは博多が2軒、久留米はゼロ、熊本に2軒。うちも最近では修理とか鼻緒のすげ替えが多くなってきたね。このあいだはお客さんがわざわざ佐世保から来られたよ」

▲お客の足の形に合わせて鼻緒をすげるので、履き心地がちがう

「みんな後継者に困ってますよね。商品を置いて説明しても、みんな携帯で写真を撮ってネットで買うでしょう。物販はみんなそうです。ネット販売もそれはそれで大変らしいけどね。そういう時代です」(小川さん)

「昔は店の数も多かったけど、京町銀天街もいまは随分お店が減った。それだけ小売店が厳しくなったってことなんやろうね」(渡邊さん) 小売店に求められるものが変わってきたとはいえ、歴史ある商店街をいつまでも存続させるために、京町銀天街では催しも盛んに行われています。アーケードに飾られた個性あふれる川柳もそのひとつ。応募された作品から選ばれた優秀作が2か月ごとに掲示され、お馴染みの風景となっています。そのほかにも、古本市「京町とほほん市」や竹灯籠を灯すイベントなども京町ならではの催しです。

▲ユニークな川柳は京町銀天街を歩くときの楽しみのひとつ

「昔から京町というのはこの街のメインストリート。長い歴史があるんです」(岡本さん)

「いまは物販の店がやめて、居酒屋とかが増えてきたよね。チンしてるだけみたいなファジーな店が多い。楽して儲けようと思ったらダメなんですよ。お客と店主との結びつきがあってこそ、商店の魅力があるんですけどね」(小川さん)

「お客さんと店との人間関係、ファンを作って支持してもらえるか。世間話とかを含め、買い物は楽しくないとね。コロナが落ち着いて、安心して外に出られるようになれば、またお買い物に出て行きたいお客さんが増えるかな。とにかく、商店街はなくなってほしくないですね」(渡邊さん)

京町銀天街 北九州市小倉北区京町