小倉まちじゅうモール

あのころコラム ひとむかし あの頃を知っている小倉マスターに聞きました。

旦過市場商店街ひとむかし

旦過市場は同じ船に乗る仲間同士
苦難も乗り越え、お客さんに優しい市場でありたい

●お話を伺った人
森尾和則さん(昭和23年生まれ)/小倉かまぼこ 会長

▲小倉かまぼこ会長の森尾和則さん

生鮮だけでなく多様な店が集まっていた

旦過市場の発祥は大正時代の初めに遡ります。神嶽川の川岸に玄界灘で採れた魚を網ごと荷揚げして、その場で商いをしたのが始まりだと伝えられています。近くには住宅も多く、近郊からも青果などの荷が集まるようになり、自然と市場が形成されて行きました。

太平洋戦争中には一部が取り壊されましたが、戦後すぐに商いが再開されます。戦前にもあった川にせり出すように建てられた独特な建物は、昭和34年にコンクリートで建て替えられ、37年にはアーケードがかかり最盛期を迎えます。

旦過市場にはたくさんの名物がありますが、その中のひとつ「カナッペ」が有名な「小倉かまぼこ」の森尾和則さんに、昔の旦過市場についてお話を伺いました。

「私の叔父が大正9年に小倉かまぼこを創業し、父が後を継いだのが昭和34年。私が小学校3年生の時でした。みなさん店の2階で暮らしていたので、夜の8時、9時まで開けている店がたくさんあった時代です。

その頃はとにかく子どもが多くてね。『昭和館』さんと『まなこ花店』さんの前、今も鳥居が残る場所にあった広場が子どもたちの溜まり場でした。メンコをしたり、紙芝居が来たり。新旦過も活気があって、昆布屋さんや食堂とかいっぱいお店があって、そこの人たちとも交流がありました」 現在の旦過市場は果物や野菜、魚、肉が市場のメイン。お店ごとの特色、店主の個性があり、買い周りができるのが旦過市場の魅力です。

▲子どもの頃は夜6、7時頃まで近所を走り回って遊んでいたという

「昔は靴屋さんや薬屋さん、毛糸屋さんとか、いろんなお店が雑多にあったんですよ。

同業種の店が市場の中に何十軒もあるから、みなさん切磋琢磨して自分の店の特徴を出してね。高級品から安い品まで幅広くあるので、お客さんはお店を選んで、商品を買うことができます。 以前、リーガロイヤルホテルの料理長と話した時に『やっぱり旦過市場は楽しい』って言ってくれてね。鯛を買うならこの店、カニならここ、とか、いろんな店を見て選べるのが楽しいってね。旦過市場にはそういう強みがありますよね」

お客の心を掴んだ名店の数々

それぞれの買い物客には馴染みの店があり、いまでも気心知れた店でお目当ての商品を買い揃えるという常連も多いといいます。お客の要望に応えるために努力も欠かせないのだとか。

「いまはもうありませんが『かじわら』さんっていう大きな魚屋さんがありました。北九州の卸売市場だけでは魚が足りなくて、福岡や下関、青海島、佐伯とか、いろんなところを走り回って仕入れてましたね。それだけお客さんの注文が多かったんです。

かじわらと魚屋の二大巨頭だったのが『川原』さん。火災で焼けた後もまた旦過に戻ってきましたけど、あそこは仕事が丁寧でねえ。ほんと素晴らしいなと思います」 また、旦過といえば「ぬか炊き」も有名です。いまでは郷土の味としてお土産としても人気があります。

「最初にぬか炊きを大々的に始めたのは『吉勝』さんでした。ここも火災の被害に遭ってしまいました。あとは元々漬物屋さんだった『宇佐美商店』さんも結構昔からやっていたと思います。『仲野鮮魚店』の隣にあった老夫婦の魚屋さんでも作っていましたね。そして『たちばな』さん、『ふじた』さんね。いまではぬか炊きは旦過の名物みたいになりましたね」

大きな災害もみんなで乗り越えてきた

旦過市場は過去に大きな災害にも見舞われてきました。古くは昭和28年の北九州大水害。また、平成21年、22年にも豪雨により市場は浸水の被害に遭いました。さらに令和4年4月、8月に起きた2度の大規模火災は記憶に新しいところ。現在は多くの後押しを受けながら、復興への道を進んでいます。

▲火災の跡地は整地後、仮設の店舗が設置され、被災店舗が営業を始めている

「平成21年と22年にあった水害は、私が旦過の組合の会長をしていた時だったので、対応に追われました。

1回目の時は、川沿いの店は浸かってしまいました。でもその日のうちに濡れたものを1箇所に集めて店を洗い流し、全部消毒してまわったんです。そして「もう心配ございません」という看板を立てて、次の日からほとんどの店が商売されていました。

2回目の水害のほうがひどくて、アーケードが川のようになりました。ですけど、前年にも経験し活かし、行政もすぐに対応してくれたのであまり苦になりませんでしたね。水害なんていつでもこい! って感じでね」

度重なる水害をたくましく乗り越えてきたと森尾さんですが、「火事の場合はどうにもなりませんね」と2度の大火を振り返ります。

「それでも組合の連携が強いので、火災の翌朝にはどう対処しようかと順番に問題を整理して対応していきました。みんなが協力的で、旦過の役に立つようにという強い思いで一生懸命動いてくれるので助かります」

忘れられない祭の思い出

街の人々の連携が感じられる事柄といえば、祭もそのひとつ。小倉祗園の話を伺うと「最高の思い出がひとつあるんですよ!」と森尾さんは目を輝かせます。 「祗園の期間中に京町・魚町・旦過が1ヶ所に集まって一緒に太鼓を叩く『合同打ち』というのをやるんです。それまではいつも京町や魚町まで出向いていたんですけど、平成27年か28年に、初めて旦過の中で合同打ちができたんです。ほかの地域の山車がアーケードの中に入って来たのは旦過史上初めてのことだったので嬉しかったなー。それを実現するために若手たちと一生懸命練習したんですよ。神事ですからちゃんとマナーも守るよう指導もしてね。ものすごく盛り上がりました。

▲市場のみんなで協力した「食市祭」も旦過お馴染みの催しだった

「旦過市場の中もそうですけど、周辺エリアのみなさんともいい関係を築けたことも大事だったと思います。20回続いた食のイベント「小倉 食市食座」も合同で開催できましたし、今回の火災でもたくさんの支援をいただいています。今後もいい関係をつないでいかないといけないと思っています」

「旦過」というブランドを大切に

今後の旦過市場は、火災からの復興、そしてエリア毎に建替える再整備が行われ、新たな市場づくりへと進んでいきます。新たな姿となっても、商店街ならではの魅力はそのままに、「北九州の台所」として市民から愛される元気な市場であってほしいものです。

「まずは火災からの復興を軌道に乗せて、本当に商売したい人が戻って来られて、賑わいを取り戻せるようにしたいですね。僕らは旦過市場っていう同じ船に乗って商売をしているので、みんなが旦過というブランドを背負っていかないといけません。お客さん全員が『やっぱり旦過市場で買い物してよかったね』と言ってくださるようになってほしい。そのためにお客さんに優しい市場でありたいですね。 今後は、復興・再整備で綺麗になって、衛生的で買い物しやすい市場になると思います。スーパーや百貨店にはない特色がある旦過市場にしていきたいですね」

旦過市場商店街

北九州市小倉北区魚町四丁目 うちに「お城祭り」の時の古い写真があるんですけど、写っている店主全員が剣士の仮装姿なんですよ。叔父は宮本武蔵の扮装でね。楽しそうなその写真を見ると、当時もみんな仲が良かったんだなと思いますね。