小倉まちじゅうモール

あのころコラム ひとむかし あの頃を知っている小倉マスターに聞きました。

魚町銀天街ひとむかし

新しいこと、面白いことへのチャレンジで
小倉でいちばんの賑わいを生んだ銀天街

●お話を伺った人
米谷晋治さん(昭和4年生まれ)/新米谷
濱田浩三さん(昭和13年生まれ)/はまだ洋装店

▲魚町銀天街の歴史を語ってくれた米谷晋治さん(左)と濱田浩三さん

いまとは比べ物にならないほど賑わっていた魚町

長崎街道から続く京町と隣り合わせる魚町は、江戸時代から商家が立ち並び、やがて呉服店を中心とした商店街へと成長。小倉ばかりでなく、中津や下関からも買い物客が訪れる繁華街となりました。

魚町銀天街を古くから見続ける長老のおふたりに、記憶に残る昔の魚町を思い起こしていただきました。

「昔は小倉駅が室町にあったから、常盤橋を渡り京町筋を通って魚町から旦過に至るのが昔の小倉の商店街。いまとは人の流れが少し違いましたね。『湖月堂』から『松田楽器』のあたりは綿町、電車通りは大坂町という地名でした。魚町は軒並み商店が立ち並んでいて、2階が家でした。私のところは呉服屋さんで、従業員も住み込み。番頭さんがいて、丁稚は丁稚は本名ではなく、お店での呼び名『ツル』さんとか『カメ』さんと呼ばれていました」と米谷さん。

濱田さんは子どもの頃に遊んだ記憶を話してくださいました。 「街のメインの通りが魚町だったから、平和通りは空いていてね。キャッチボールをして遊んでいましたよ。あと、紫川と神嶽川のあたりには『段谷産業』があって、川に材木をたくさん浮かべていて、その上をトントン渡ってよく怒られていましたね」

米谷さんからは、かつて魚町に立ち並んでいた商店の名前が次々に飛び出します。

「魚町一丁目の方からいうと『湖月堂』、『井沢化粧品』、『キリノ』というという靴屋があって、『西川呉服店』、『宝文館』という本屋は歌手の中尾ミエさんの実家ね。『住市』さん、『エラ』っていう靴屋さん、『前田』のかまぼこ屋さん。

二丁目は電車通りの角が『明治製菓』、『濱田屋』のパン屋さんは作家の劉寒吉さんのとこね。そして『濱田呉服店』、『力丸』、家具屋さんは『松永』さんと『原』さん。

三丁目には『ハレルヤ』っていう毛糸屋さんがあってね。本業は毛糸なんだけど、夏になったらアイスクリームを売るの。

『井筒屋』よりも前にデパートもあったよ。1番古いのは鳥町にあった『兵庫屋』。そして魚町の『かねやす』。4階建のかねやすの屋上からは海が見えよったね。どちらも元々呉服屋から百貨店になりました。町自体も呉服関係の店が多くて、商店街を引っ張っていた。それに付随して履き物屋さんがあったり、家具屋さんがあったり」

当時は店の入り口には各店ショーウィンドウがあり、商品のディスプレイにも季節感があったといいます。陳列展示のコンクールもあり、濱田さんの店は入賞したこともあるそうです。 「市長から賞をいただきましたよ。ショーウィンドウも見るだけでも楽しかったですね。私らと同じ年代の人は、まだ小倉の賑やかな時代を知っていると思います。まだ福岡に人が流れてなかったですからね」

▲「新幹線ができる前までは、電車通りの信号を渡るのに1回じゃ渡りきれないくらいでしたね」(濱田さん)

えびす市、祗園祭、住吉祭…。街中が賑わった祭の思い出

現在の小倉の祭といえば「小倉祗園太鼓」と「わっしょい百万夏まつり」を思い浮かべますが、昔はもっとたくさんの祭が開催されていました。催しも多く、魚町はいつも賑わいに溢れていました。なかでも「えびす市」はその時代を反映した豪華な景品が当たることで人気を誇る、商店街の一大イベントだったといいます。

▲大切に保存している古い写真を手に、当時に思いを馳せる米谷さん

八坂神社の『祇園祭』、『住吉神社のお祭り』、『川祭』など、昔はいろんな祭りがありました。呉服屋が主体で始めた『えびす市』は、とにかく近郷近在から街に人が出て賑わったね。町内の人がみんな法被を着て、赤や青、紫に色分けした“こより”のくじを引いてね。昔は1等がタンス、それから布団。末等はハガキ(1銭五厘)だったね。えびす市は本当に楽しかった」米谷さんは当時の賑わいを「忘れられん」と語ります。

「商店街で宣伝カーを持っていたんですよ。中津あたりまで宣伝しに行っていましたね」と濱田さん。「くじ引きをしていた場所はいま『資さんうどん』が入っている商工会館でね。時代によって1等の景品が家一軒っていう時もありましたね。ずっと後になると海外旅行になりました」

買い物客にとっても楽しみだった商店街の祭は、この街の人にとっても楽しみのひとつだったといいます。

「そりゃ楽しみでしたよ。商店街の『えびす市』もだけど、『祗園祭』と『住吉さんの祭』も楽しかったね。その時は山鉾が出よったの。一丁目と四丁目に御旅所ができてね。古い町にしか鉾がないから、新興の魚町は“桃太郎”とか“水兵さん”とかの扮装をして、町内ごとに競争しよったね」

▲年毎にさまざまな仮装をするのも、当時の祭りの楽しみだたっという

米谷さんの祭の思い出話は続きます。

「いまの祗園は太鼓中心の祭だけど、昔の祭のメインは山鉾で太鼓はお供。後ろからついていくようなものだった。映画『無法松の一生』の原作で作家の岩下俊作が “あばれ打ち”なんて書いとったけど、本当は粛々とした祭でしたよ。祭の時は『2階に干物をするな、2階から覗くな』って言われよった」

「神様を上から見るなと。当時はいまよりも祭りが神聖なものでしたね」

と濱田さんも当時を懐かしみます。

「『無法松の一生』の撮影で勝新太郎さんが来られた時には、うちの親父たちが太鼓の打ち方を教えたみたいですよ。いまの時代じゃ考えられないけど、女性が太鼓を叩くことはまったくなくて、子どももほとんど太鼓に触れなかったですね」

今では太鼓の祭として賑やかな音が鳴り響く小倉祗園ですが、随分と様変わりしたといいます。そして同時に、商店街の様子も時代と共に大きく変わりました。

「なんもかんも変わってしまったね。昭和10年代頃の呉服屋というと、たとえば婚礼衣装といったら夫婦で来てくれて、2階に上がってもらってね。下には下足番がいて、丁稚さんが10人くらいいました。近所の仕出し屋でお昼ごはんをとって出してたね」と米谷さん。

その話を聞きながら元々は呉服店で、終戦後に洋装店に変わった濱田さんも大きく頷きます。

▲昭和5年の新米谷の2階の様子

「昔の店主は旦那さんとか大将、ご主人でしたけど、いまは店長、社長です。店と住まいとが別々になって、横のつながりが薄くなりましたね。それこそ“向こう三軒両隣”で、朝の仕事はご近所さんとの挨拶で始まっていたね。いまはそういうことが少なくなった気がしますね」と変わりゆく商店街に米谷さんは少し寂しげな様子でした。

常に時代の先を行く先進的な気質をこれからも

昭和26年に日本で初めて公道上にかけたアーケードが完成させた魚町銀天街。近年では平成22年には勝山通りに太陽光パネルを備えた「魚町エコルーフ」が完成。現在は持続可能な商店街を目指す「SDGs商店街」として、さまざまな取り組みを進めています。

これまでにない新しい発想でチャレンジを続ける姿は、魚町銀天街の特徴であり、受け継がれた気質でもあるといいます。 「自慢話になるけど、アーケードに最初に着目したのは私の祖父と池田大盛堂の大将のふたり。幌がけのテントを作ったんです。それは戦時中に取られてしまったけど、その発想が元になって『松永家具』の松永さんと『オーキ洋服店』の大鬼さんが尽力して昭和26年にアーケードがかかったんです」と米谷さん。

▲米谷さんはこの日のためにたくさんの写真やメモを持ってきてくれました

若いころに商店街の青年部「銀青会」で米谷さんと共に街を盛り上げたという濱田さんも、当時を振り返ります。

「小倉城の天守閣の復元や昔のステーションビルなんかも、魚町の人たちが出資しているんですよ。小倉を代表する商店街ですから、街の発展に貢献していたんですね。

昭和40年代のクリスマスセールも思い出深いですね。1等はパリに20人招待、末等にはフランスパン配ってね、おもしろいでしょ。昭和55年には、チャリティ餅つき大会に横綱になる前の千代の富士が来てくれたこともあります。新しいことを始めるのは大変ですけど、商店街の人がおもしろがってやるのが1番だと思いますね」

最後にこれからの魚町銀天街についての思いを伺いました。

「昔は魚町に来るお客さんは買い物をする気でそれぞれの店を目指して来てくれていました。商売が楽しかったですね。あの気持ちをまた味わってほしいですね」

魚町銀天街 北九州市小倉北区魚町