旦過市場の入り口に程近い小文字通り沿いで、だご汁の店として親しまれていた「いちべえ」。2022年4月に起きた旦過市場の大規模火災で店舗兼住宅を失ってしまいましたが、約9ヶ月ぶりに旦過市場内に移転オープンを果たしました。苦難に負けず、力強く再起を果たした店主の徳岡朱美さんを訪ねました。
ツルツルすべすべ食感のだご汁は食べ応え満点
彩り豊かな具材が器いっぱいに盛られたアツアツのだご汁。人参やかぼちゃ、しいたけ、ブロッコリー、鶏肉など、11種類の具材が顔を覗かせます。主役のだごも含め、すべて手作りのだご汁はこうじ味噌の優しい味わいで、体の隅々にまでおいしさが染み渡るようです。
「うちのだご汁は昔から機械は一切使いません。粉から手で捏ねて一晩寝かすと、伸びのいい生地ができるんです。それを切って指で伸ばして湯がくと、ツルツルすべすべのだごになります。おいしいんですよ」と徳岡さん。
つるりと艶やかなだごを作るために、徳岡さんは粉から探して試行錯誤を繰り返したのだそう。たっぷりと入った具材も、それぞれ別々に炊き上げたもの。「手間がかかるけど、やっぱり丁寧に作らないとダメなんです。お客様にお金をいただくのですから、お代以上のことをしたい。だから手を抜かずに、ちゃんとしたものをお出ししたいといつも思っています」
だご汁定食に付く日替わりの一品料理や漬物も徳岡さんの手作り。この日のポテトサラダはアクセントとしてリンゴが加えてありました。「しゃりしゃりとした食感がおいしいんです。お漬物も高菜を炒めたり、毎日工夫をしています」
長く親しまれてきたいちべえの味を再び味わってもらえることは、被災した徳岡さんにとっての願いでもありました。
一人になると思い出す、火災当日のこと
火災の起きた4月19日、徳岡さんは“虫の知らせ”とも思える不思議な体験をしたと話してくれました。「帳簿の計算を済ませて、気分転換にと2階に上がり、タンスの中の洋服や着物の手入れをしたんです。一枚ずつ触って、防虫剤を入れ替えて。そんなこと普段はしないんですよ。後から考えると、その時に全部お別れをしたことになりました」
その2時間後、隣のラーメン屋さんが戸を叩いて、店のすぐ裏で起きた火事を知らせてくれたのだそう。枕元に置いていたリュックサックに荷物を詰めて慌てて避難したけれど、パニックで大事なものはあまり持ち出せなかったと振り返ります。「命さえ助かれば、と思うけれども、一人になると、どうしてもあの日のことを思い出しますね」
全焼して崩れ落ちた建物の中から、ボランティアが嫁入り道具のミシンや柱時計などを見つけ出してくれましたが、店と家のほとんどのものを失ってしまいました。
「家財道具はもちろん、昔の資料や日記、店に来てくれた京唄子さんやとよた真帆さんなどの写真なども焼けてしまいました。かろうじて残った店先にあった焼きおにぎりの焼き台や店のシンボルのかかしは、新しい店に運ぶことができました」
すべてを失ったけど、たくさんの人に助けられた
火災の後も、焼け跡を毎日見に来ていたという徳岡さん。店の営業の傍ら長く民生委員を務め、ボランティア活動に励んできたという自分の人生が「86歳でこんなことになるとは思いもしなかった」と、途方に暮れる毎日だったといいます。
「ある日、いつものように何もなくなった店の跡を見て泣いていたら、ひとりの女性が隣に立って『どうされたんですか』と声をかけてくれました。『ここ、私のお店だったんです』って話したら、京都から来たというその女性は『お気の毒に』って言って、私の背中を30分くらいずっとさすってくれたんです。がんばれ、がんばれってね。まったく知らない方でしたけど、本当にありがたかった。忘れられません」
まちを歩いていても、馴染みのお客さんが声をかけてくれたり、新しい店の取材を受けたテレビを見て、田川や飯塚など遠方から足を運んでくれるお客さんも多いのだとか。
「旦過市場の方もみんな応援してくれているし、何よりお客さんに1番元気をもらっています。前の店に比べて狭い店ですけど、『テレビ見ましたよ』とわざわざ来てくれるのは励みになりますね。帳簿も焼けてしまって移転の案内も一切出していないから、そのうち気がついてくれたり、思い出してくれたら嬉しいなと思います」
「ひとりで沈んでしまうより、店に立っている方がいい」と狭い店の中に立ち、手際よく調理をする徳岡さんを見ていると、自然とエールを送りたくなります。
「子どもの頃はソフトボールや陸上の選手をしていたから体は丈夫なんですけど、歳だからもうあまりがんばりすぎずに、楽しく仕事をしていきたいと思います」
「おいしかったと言ってもらえることが1番。みんなから喜ばれる仕事をして、楽しく過ごしていきたいね」
いちべえ 徳岡朱美
いちべえ
北九州市小倉北区魚町四丁目1-4
営業時間:11:00〜16:00頃(売り切れ次第終了)
定休日:日曜祝日
取材/撮影:岩井紀子